無知なる乙女は
籠中にて語る
▼登場キャラクター
骸場 魅
佐々木 小枝子
宝条 幸子
序
朦朧とする意識の中、彼女は唾棄するべき迷妄に揺さぶられていた。解離していく自我はまるで他人のようで、それは醜穢な悪魔へと姿を変えた。そして舌頭に乗せた蠱惑的な言葉を、彼女の耳元で囁くのだ。
「飢えとは、空腹とは最大の恐怖である」
「此れは呪縛ではない。我々の教示だ」
「求められるのは淘汰ではない。順応せよ」
「さあ、魑魅」
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壱
――八月三日、時刻不明。
校舎を繋ぐ静かな叢林に、ざくざくと枝を踏み鳴らす音が不規則に響く。懸命に鳴いていたミンミンゼミは羽をばちりと鳴らすと、広葉樹の太い幹から飛び去っていった。そして、その木の隣をゆらりと通り抜けた一人の女がいた。
彼女は短い呼吸音を繰り返し漏らしながら、覚束ない足取りで雑木林の奥を目指し、歩いていた。瞳に映る光景はまるで乱視患者のように、遠くの景色は蜃気楼のように浮き立っているように見える。
そして、次に足を踏み出した瞬間、彼女はがっくりと膝から崩れ落ちた。両膝を地につかせ、腹部のシャツをぐっと握りしめる。すると、抵抗するように腹の虫が音を立てた。それが、自身の限界を指し示すものであることに、彼女はとうに気が付いていた。
夏の茹った暑さの中、不安定な彼女の意識は徐々に朧げになっていく。このまま意識を手放せば、きっと痛みなく死んでしまえるだろう。
しかし、彼女はまだ白骨を晒す運命にはいなかった。背後から、駆け寄ってくる二つの足音に気が付いた彼女は振り返り、それらを警戒するように睨みつけた。
そこにいたのは見知った顔ぶれ。足音の正体はクラスメイトの宝条 幸子と佐々木 小枝子だった。どうやら二人とも、倒れる彼女の様子を見ていたようだ。
「骸場さん、少々調子が悪そうに見えます。大丈夫ですか?」
「何処か痛いの……?」
二人の心配を孕んだ声と同時に、幸子は彼女の背に手を伸ばした。
――さあ、魑魅――
彼女の心臓が大きく脈打ったのは間違いなかった。しかし、それを認識するよりも先に、彼女は二人のクラスメイトから三歩ほど後退った。
「それ以上寄るな!!」
無意識に粗暴な声を上げると、驚いた小枝子が肩を震わせていた。一瞬「怖がらせてしまった」という思考が頭を過ったが、それも束の間。腹の虫が再び暴れだし、彼女は悶え苦しむように蹲った。
「腹、が……」
二人が何かを言っている。しかし、彼女がそれらを聞き取ることはなかった。
無心であれ、咀嚼せよ、逃れるな、受け入れろ――彼女の脳髄にまで響き渡る狡猾な老婆の叫喚が、全てを邪魔していた。
だが、彼女が恐れていたものはそんな老婆の幻影ではない。このように、逃げ場のない閉ざされた場所において、最も阻止しなければならないことを、彼女は深く……深く、理解していた。
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“理性は羅針であり、欲望は嵐である”
――アレキサンダー・ポープ
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弐
再び、彼女の体に二つの手が伸びる。瞬間、彼女は幸子の手首を力強く握り締めた。突然の行動に、二人の表情には動揺や驚きが滲んでいたかもしれないが、彼女は顔も上げず、そのまま言葉を続けた。
「……幸子、小枝子。二人は七月十五日が何の日であったか、知っているか?」
「え?」
「何の日、ですか? ふむ……いえ、わかりませんね」
「終業式じゃないよね……? えと、ごめんね……私もわからないや……」
回答を聞くと、彼女は変わらぬ様子でこう言った。
「七月十五日は盂蘭盆会と言ってな、所謂旧暦のお盆で餓鬼道に落ちた者を救う仏教の行事があったんじゃ。うちの家は毎年その日が盆で」
声が上擦り、息はだんだんと荒くなる。
「年一番の馳走が振る舞われる予定じゃった……じゃがこの有様じゃあ。わかるか……? ただでさえ、七月は一度も口にしとらんというのに、もう……もう……」
そして、暫しの沈黙。次に変化があったのは、雑草に滴る赤い色だった。
鋭い痛みに、幸子は顔を歪めた。痛覚に訴えられ、咄嗟に手を引っ込めようとしたが、深いため息を吐いて、微笑みを浮かべた。
「おや、私の腕は骨と皮ばかりで美味しくないでしょう」
まるで彼女が求めているものをわかっているかのように、幸子は自身の前腕に歯を突き立てる彼女――骸場 魅を見ていた。魅はごくりと喉を鳴らしながら、さながら吸血鬼のように幸子の細い腕から血を吸い上げ、飲み込んでいた。
「骸場さん、やめて……!!」
小枝子は何が起きているのかわからないといった様子だったが、慌てて魅を幸子から引き剥がそうとした。小枝子は大変非力――更にギプスをしていたため――であったが、引っ張られると案外すんなり、彼女は腕から口を離した。
ぼんやりと滲んだ瞳で小枝子の顔を見つめる。小枝子の表情は何処かほっとしているようにも見えた。
ポケットからハンカチを取り出すと、小枝子は幸子の手当てを始める。それを見てようやく冷静になってきて――自分のしてしまったことに気が付いた。
「はは……ははは……本当にどうかしている」
二人の視線がこちらへ向く。
「ずっと、皆の輪に混ざれるような「普通」が欲しかったのに、何もかも遅すぎた……本当に最低じゃ……主らは大事な友人であるはずなのに、妾、妾は、主らのことが――」
「肉にしか見えんのじゃ」
吐き出してしまえば楽になるのだと思っていた。しかし、当然ながら取り返しのつかないことをしたという事実が消え去るわけでもなく、彼女は自身の罪を述べることしかできなかった。謝罪を続けるしかなかった。二人の顔を見ることができなかった。切れ目のない曇天に覆われたような感覚が……憎らしくて仕方がなかった。
「なん、で……」
彼女の謝罪を遮ったのは、小枝子の細い声だった。魅は言葉を詰まらせると、三拍ほど間を開けてから、小枝子に応えた。
「……なんで、と問われれば「そういうものだから」と答える他ない」
喉が絞まる。
「骸場の家業は少々変わっていてな、定期的に人の遺体が運び込まれてくる。妾は物心ついた時からそれを食べさせ――ううん、好んで食していた。そのせいで、人を人として見られなくなって、それで二人を傷つけて」
「骸場さん」
魅の名を呼んだ幸子の声音は、とても柔らかく温和なもので、いつも友人と話す時と変わらない……非日常的体験などしていないといった様子だった。
「そもそも、私は骸場さんに謝られるようなことは何もされていませんよ。だから謝らないでください」
ああ、そういえば――と、幸子は続ける。
「餌にしようと思っていたヤギと友達の振りをしているうちに、本当に愛情を抱いてしまう狼の話を知っていますか? ……こういうものは、変えようと思って変えられるものではありません。ですが、手助けすることはできます。できるできない、普通、普通じゃないとかは関係なく、今は骸場さんのやりたいようにしては如何でしょう? 何か危ないことや困ったことになりそうであれば、その時は私が責任を持ってお止めしましょう」
幸子のその申し出に、魅は肯定も否定もなさなかった。そして、少し迷いがあるかのような素振りでこう言った。
「……人を傷つけたくない、人を人として見たい、まともでいたい……妾の望みはそれだけ。だけど、どうすればいいのかわからない……人が死んだという噂を聞く度に、腹を空かせているのはきっと妾だけじゃ」
「……主らならどうする。やりたくないのに、自身の欲望のせいで誰かに危害を加えざるを得なくなってしまったら。自らで死を選ぶか? 衝動のままに傷つけるか?」
幸子は「ふむ」と一つ、考える仕草をした。
「そうなれば、私はどんな理由があれど、まだ死ぬ訳にはいきません。だからといって誰かを傷つけるのも本意ではないです。自分でどうしようもない場合は……ええ、その時は周りを頼ります。解決法がないなら見つかるまで探すまでです。幸運なことによい友人たちに恵まれましたのでね!」
「骸場さん、私は貴方のことも、よい友人であると思っておりますよ」
その答えに、彼女が、魅が返事をすることはなかったが、幸子は晴れやかな笑顔を口元に浮かべていた。相変わらず、瞳は前髪の陰に隠れて見えなかった。
小枝子はというと、この問い掛けに言葉を失っていたようだった。風に揺れ、擦れる葉の音に紛れた「私は」という掠れた小さな声が、彼女の迷いを暗に示していた。ただ、苦虫を噛み潰したかのようなその辛そうな表情から、小枝子の友人に対する――そうとは伝えられなかったが――感情や考えがそうさせてしまっていることは明らかだった。
「……小枝子、幸子、すまなかった。怪我までさせてしまって、本当に、申し訳ない」
暫く間を開けた後、魅は短く呼吸をすると、そうやってもう一度謝罪の言葉を述べた。何も、小枝子の答えを聞きたくなかったわけではないが、小枝子の顔を見て、何故か――これ以上考えさせてしまってはいけないような気がしたのだ。
「少ししたら教室に戻るから、二人は先に戻っていてくれ……その、かなり治まってきたし、もうほとんどいつも通りじゃから」
膝を抱えて俯く魅は、とうとう二人と目を合わせられなかった。
もし「行きましょう」と幸子が声を掛けなければ、小枝子はそこに立ち尽くして、その様子を見つめたまま動けなかったかもしれない。
「……ごめんなさい」
二人が立ち去る間際。最後に聞こえた小枝子のその声が、言葉が、後悔する彼女の耳にこびりついて離れなかった。